佐々木朗希の壮絶な生い立ちと経歴・幼少期から現在までのまとめ!

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人物
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佐々木朗希選手は千葉ロッテマリーンズ・2023WBC日本代表選手。

2022年には史上最年少で完全試合を達成し、話題になりましたね。

そんな佐々木朗希選手ですが、どんな幼少期を過ごされてきたのでしょうか…。

本記事では「佐々木朗希の壮絶な生い立ちと経歴・幼少期から現在までのまとめ!」と題して、佐々木朗希選手の詳しい経歴をまとめていきたいと思います。

それでは早速見ていきましょう。

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佐々木朗希の壮絶な生い立ちと経歴

佐々木朗希選手は2001年11月3日、岩手県の陸前高田市高田町で3人兄弟の次男として生まれました。

2023年3月現在で年齢は21歳になります。

現在はプロ野球選手として大活躍の佐々木朗希さんですが、実は2011年3月の東日本大震災で父親(当時37歳)と祖父母を亡くされています。

当時9歳だった佐々木朗希さん、これまでの悲しみと苦労は計り知れませんが、震災から12年たった現在、「今あるものがいつまでもあるわけじゃない、後悔しないよう、一生懸命生きてきた」と話されています…。

幼少期から中学時代

佐々木朗希さんの幼少期は、いたずら好きで外をずっと駆け回る活発な少年だったようです。

佐々木朗希さんが通っていた小学校は、陸前高田市立高田小学校

朗希さんは小学3年生の時に、地元の高田野球スポーツ少年団に所属していた兄の影響を受け、野球を始めます。

しかし小学4年生に上がる年の3月、東日本大震災が発生し父・祖父母を亡くし、自宅も津波に流されてしまいます。

佐々木朗希さんは地震発生時は小学校にいて、近くの高台へ避難していたそうです。

その後、老人ホームでの避難所生活を送り、母の陽子さんの親族が住む隣町の大船渡市に引っ越します。

大船渡市立猪川小学校に転校した佐々木朗希さんは、地元の軟式少年野球団「猪川野球クラブ」に入部。

小学6年生になった2013年12月、岩手三陸沿岸の少年野球チームによる大会「リアスリーグ」の決勝戦に出場します。

小学校を卒業し、大船渡市立第一中学校に進学した佐々木朗希さんは、軟式野球部に入部すると投打で実力を認められ、2年生秋の新人戦からエースナンバーを背負います。

しかし佐々木朗希さんがエースナンバーを背負ったのは、中学2年生の秋だけでした…。

怪我などで思うように投げられない時期が断続的に続き、3年生になる直前の2016年初春に腰の疲労骨折が判明します。

医師からは「このまま、だましだまし投げることは可能。しかし、この選手は、ものすごい選手になる可能性を秘めている。これから身長もまだまだ伸びていくだろう。だから、この時期を棒に振ってでも、完治を優先させるべきかもしれない」

と言われたようです。

悔しくて、ボロボロ泣いていた佐々木朗希さんですが、その後半年近くをリハビリに充てることになります。

今考えるとこの判断は正しかったと分かりますが、当時の朗希さんにとっては相当辛かったでしょうね…。

3年生の中総体への出場は叶わず、チームは大会地区予選で初戦敗退しましたが、怪我が癒えた秋に参加した「第16回県中学生KWB野球選手権」で9年ぶりの優勝を達成しました。

  • 東北大会で準優勝
  • 県選抜に選出
  • 第11回U15全国KWB野球秋季大会に出場

大会中には当時の自己最速となる球速141km/hを計測し、県KWB野球連盟と県中学生野球連盟の優秀選手賞を受賞します。

大船渡高校時代

佐々木朗希さんは中学卒業後「岩手県立大船渡高等学校」に進学します。

中学時代の佐々木朗希さんは全国的には無名でしたが、花巻東や盛岡大附属など、岩手県内の強豪私立から声がかかっていました。

しかし、地元で甲子園を目指したいという思いから、大船渡高校に進学する事となります。

公式戦デビューは1年生、夏の県大会で3番手投手として登板。

球速147km/hを計測します。

2年生、夏の県大会では初戦に球速154km/hを計測しましたが、チームは敗退。

秋の県大会ではエースナンバーを背負い、1回戦で2年生史上最速タイとなる球速157km/hを計測し、チームを16年ぶりのベスト4に導きます。

2019年4月、高校3年生になった朗希さんはU18日本代表の合宿で、高校最速とされる163km/hをマーク。

これは大谷翔平選手の高校時代を超える数字、160km/hを3km/h上回るもので大きな話題となり、「令和の怪物」と称賛されました。

全国から大きな注目を集めた3年生夏の県大会は、エース兼4番打者を務めました。

7月30日に行われた花巻東との決勝戦では、「故障予防のため」という理由で投手・打者とも佐々木朗希選手を出場回避させチームは敗退、大船渡高校はあと一歩のところで35年ぶりの甲子園出場を逃す事となりました。

試合後には苦情の電話が殺到、メディアでも取り上げられるほど大きな社会問題となりました…。

2019年10月、「タイトルを全て取れるような投手になりたい。」とプロ志望を表明した佐々木朗希選手。

ドラフト会議では4球団競合の末、ロッテが交渉権を獲得しました。

入団交渉にて契約金1億円プラス出来高5000万円、年俸1600万円(金額は推定)で契約合意。

背番号「17」は将来170 km/hを投げてほしいという思いが込められているそうです。

千葉ロッテマリーンズから現在

2020年2月1日からの沖縄・石垣島春季キャンプで1軍スタート。

佐々木朗希選手の初ブルペン入り動画が投稿されると、再生回数107万回を突破し話題となりました。

シーズン終盤には実戦デビューも期待されましたが、「試合レベルに達していない。今シーズンはちょっと難しそう」と監督の判断により、肉体強化を図る1年となりました。

来季の契約交渉では、現状維持の年俸1600万円で合意。

「来年から試合で投げるにあたって、すごくいい経験だったと思います」とプロ1年目を振り返りました。

2021年の春季キャンプ(プロ2年目)も1軍でスタートしましたが、フォーム固めの段階であった為その後2軍キャンプに合流。

  • 3月、中日ドラゴンズとのオープン戦にて実戦デビュー
  • 4月、東京ヤクルトスワローズ戦で公式戦デビュー
  • 5月、西武戦で1軍デビュー

プロ初勝利を挙げたのは、5月の阪神タイガース戦。

ウイニングボールを「両親に渡したい」とコメントされています。

そして、来季の契約更改交渉では1400万円増の年俸3000万円で契約を更改しました。

2022年(プロ3年目)、開幕第2戦で今季初登板初先発。

初回に自己最速の164km/hを計測し、いきなり3者連続三振の圧巻のスタートとなりました。

  • 13者連続奪三振(64年ぶりにプロ野球記録を更新)
  • 28年ぶり、プロ野球史上16人目の完全試合を達成

毎回奪三振での達成は史上初、通算14試合目での達成は史上最速、20歳5か月での達成は史上最年少記録となりました。

佐々木朗投手と松川虎生選手は「プロ野球における完全試合を達成したピッチャーとキャッチャーの最年少(合計年齢)」としてギネス世界記録に認定

好成績でシーズンを終えた佐々木朗希選手、来季の契約更改交渉は5000万増の年俸8000万円で更改しました。

また2022年末のプロ野球珍プレー・好プレー大賞では、2022年度大賞を受賞しています。

2023年はWBC日本代表選手にも選ばれ、今季の活躍も期待される佐々木朗希選手。

今後も注目していきたいですね。

まとめ

今回の記事では「佐々木朗希の壮絶な生い立ちと経歴・幼少期から現在までのまとめ!」と題して、千葉ロッテマリーンズで活躍中の佐々木朗希選手について、生い立ちと経歴を詳しく紹介していきました。

佐々木朗希選手は岩手県陸前高田市で生まれました。

2011年、小学3年生(9歳)の時に東日本大震災により、父親と祖父母を亡くされています。

これまでの佐々木選手の悲しみと苦労は計り知れませんが、「野球に夢中になることで辛いときも頑張れた」と話されています。

そして現在は夢が叶い、プロ野球選手として大活躍中の佐々木朗希選手。

今季でプロ4年目になりますが、これまでに数々の記録を達成。

今後の活躍がますます楽しみですね!

最後までご覧いただきありがとうございました。

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